先ほど読んだ記事の1文を引用します。
今回の件については本気で「死ね」と思っている。
虚構新聞と日本ユニセフのアレ - 人生是空腹也
同時に思い出したのは、以下の記事。と、他、色々な記事。
自殺と炎上の因果関係は分からないけど、ブログの炎上と、自殺が連続して怒ることがわかったのが、2013年だった。
それらを踏まえて、インターネット上で発せられる「死ね」はどれくらい、死んで欲しいのでしょうねぇ。ということを考えた。冒頭の引用の一文はは、「1死ね」だし、ツイッターとか、ブクマとかでも、「死ね」が拡散しているかも知れない。
炎上経験が豊富な虚構新聞の中の人は、そんなにダメージがないかも知れないけど。また、ブログが炎上しても、インターネットで「死ね」と呼びかけても、死なないかもしれないし、死んだとしても、「死ね」と発した人が刑罰に問われることもないだろう。
だけど、考えておきたいのは、「死ね」と発信して、もしも、「死んだ」時に、どう感じるのか?ということだと思う。死んでも、死なかくても、発した時点で、咎のようなモノを背負うのじゃないか、と、あの事件から考えた。
果たして、特定の団体を揶揄(風刺?)した記事を書いて、削除要請があったから削除して、そして、その後に、言及の記事を書いたことが、命を失うほど、重大なことだろうか?
ほんの数タイプで発することができるからこそ、「死ね」の発信は慎重でありたい。もしくは、自分の中の感情を抑えきれない時は、「氏ね」を使って欲しい。
もう、炎上とかで、誰も死なないことを願って。