精力(性的な意味で)が強いというのは、生物としての強さでもあると思うけど。ある面では、自分の遠い世界で「やった」「やってない」の話だと思うけど。
以下のニュースを読んで。
- 処女じゃなかったから「よし、するか」 柔道・内柴被告の行状〈週刊朝日〉 (dot.) - Yahoo!ニュース
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20121203-00000010-sasahi-soci
まぁ、ちゃんと、柔道やっている人も、一緒に、『柔道』のイメージが悪くなって、迷惑だろうな、と思うのと。この内柴という人の強さの根源に『精力』もあるのだろうな、と。
ところで、柔道が『道』であるのは、ちゃんと理由があるはずで、Wikiでその辺りを調べてみると。以下のような記述が。
起倒流の稽古体験から「崩し」の原理をより深く研究して整理体系化したものを、これは修身法、練体法、勝負法としての修行面に加えて人間教育の手段であるとして柔道と名付け
柔道 - Wikipedia
『人間教育』は、失敗してますわな。できてない。性に関する意識は様々でも、世の中の道徳とか、良識とは外れている気がする。
終わります。
『柔道』を『道』という文字を加えたまま、オリンピック競技とかにするのであれば、代表選手の選抜に『面接』とかも加えた方が良いのじゃないか?と思えた。
ただ、技術が上手、体格に優れる、だけじゃあなくて、精神や、心も尊重する事は、大事だと思う。抑えきれない欲望も、やりくりするのが『道』なんじゃあないかな。