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犯罪脳など脳の構造に違いがあることに「納得」することは差別に繋がるのか?

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 ちょっと、もともとの話題からずれて来てしまっているのですが、そもそもの部分にズレがあるような気がしたので、エントリに書きます。滋賀県大津のいじめ殺人事件において、私は、中学生が中学生を、自殺の練習の強要までして(していたとして)、いじめ殺したことが、社会の病理、親、学校、テレビ、インターネットの影響等々だけで、説明がつくとは、到底思えなかったので、「犯罪脳」という言葉、脳の構造で「納得」したという話です。

 では、「犯罪脳」、「脳の違い」を納得する、「あると認める」ことは、差別に繋がるのか?ということです。

 そもそものエントリタイトルですが、「社会やインターネットの影響を受けて子どもが子どもをいじめ殺すなら大人や社会にも責任はあると思うが…飛び越えている部分を感じる。 」こんな感じです。「責任はあると思うが」「飛び越えている部分を感じる。」です。いじめが起きているのは「先天的な脳の構造によるものだ!」とは、思ってないので、「感じる」というワンクッション置いた言葉を使ってました。

 また、そのエントリのコメントの中で、人種差別や、同和問題まで、話が広がっていました。なんで?いじめ以外の問題が出てくるの?というのが、正直な意見です。でも、それは、人種の「違い」、住んでいる場所や祖先の「違い」による「差別」なので、「脳の構造」の「違い」を、私が「納得」することは、それらも肯定することに繋がるのか?と思いました。そう思われる部分があるのかも知れませんが、少なくとも、そのつもりはなかった、そうじゃあなかったです。

 ここで、人種差別や、門地による差別を考えてみます。私は、小中学校で道徳、高校で人権学習、また、ちょっと飛び越えて、職業訓練校でも同和講習があり、全く、「差別」に関して無知でもなく、一定の理解を得ていると思います。差別はいけないこと、と思っております。

 しかし、「違い」という部分で考えた時に、例えば、人種は、確実に違うと思います。外見的な特徴であったり、能力であったり。それが、完璧に科学的な証明がどれくらいされているか分からないですが、例えばオリンピックの時とかは、「黒色人種は潜在的な運動能力が高い」とか、音楽の話でも、人種と音楽性の違いとかは出てきます。

 それらが差別に繋がるか?と言えば、繋がる部分もあると思うのですが、どう考えても、肌の色も、瞳の色も違うのに、生まれもった能力に「差」がないと考えるのも、不自然だと思います。しかし、その「差」を不当な理由で用いて、対象を追い込んだり、社会的に不利な状況に追い込むのが差別だと思います。だけど、「違い」があることを肯定するのが、即差別だとは思いません。例えば、もうちょっと身近な話題として、「男女で身体の違いもあるし、多分、それぞれの性別の得意分野があるよね。」というような発言は、即男女差別でしょうか?男であること、女であることを理由に、不当な思想を持ち、また、実際に行動をすることは「差別」だと思います。ただ、社会的に作り出している「性役割」というモノは、あるので、非常に難しい問題ですが。

 ただ、男女で身体の作りや、内部の構造が「違う」のは、事実だと思います。

 同和問題に関しては、歴史的な部分が大きいですが、作り出された身分制度や、社会の因習等々と、根が深いと思います。しかしながら、先祖や住んでいる土地によって差別が行われることが、正しい訳がないと思っております。しかし、少なくとも、出身地や居住地が、住所的に「違う」というのは、事実な訳です。

 高校の頃に受けた同和学習の時に思ったのは、「そももそも間違った歴史なら俺達に伝えることをやめて、世の中から消してしまってくれよ!」と思ったのですが、消せないから、学習するのだということは、今は、理解できております。だから、住んでいる土地の歴史や、昔に作り出された身分制度等々のことを知ることは大事だと思います。「違い」があったことを知ることは、即差別に繋がる訳じゃあないでしょう。


 脳の構造の「違い」に関して書きます。脳の研究がまだ進んでないとか、科学的に未解明な部分があると思いますが、それと、「納得」は少し違います。科学的に証明されてないことや、インチキに思える実験結果を信じるのはダメなのか?ということです。ただ、「納得」と「信じる」は違います。

 私は、脳の構造には先天的な構造による「違い」があると思います。例えば、身長や体系や顔立ちは、遺伝的に、先天的に「違い」があることが、ほぼ社会的な理解になっていると思います。「生まれてきた時は赤ちゃんは同じ顔して、触れあう人の違いにより顔立ちが変わっていく!」とか、到底信じられることじゃあないでしょう。

 スポーツ科学の話をすれば、筋肉には、速筋と遅筋があり、その割合は先天的な「違い」があり、生まれた時点で、マラソンに向いているか、短距離走に向いているか、平均的か、というのが決まっているそうです。勿論、努力でカバーできる部分なのですが、筋肉的な素質があると考えられているようです。

 その他にも、身体等々に関しては、生まれもった素質や、「違い」があることは、広く認められていると思います。顔が違うということは、頭蓋骨も違う訳で、科学的に証明されてようがされてまいが、研究が不十分であろうが、生まれつき脳の構造に「違い」がある方が打倒だと思います。逆に言うと、顔や身体が違うのに「脳」だけ、同じの方が不自然だと思います。

 そして、脳の構造の違いがあると考えた時に、それが、性格に影響していくか?という部分です。例えば、私は、兄夫婦が遊びにきた時に、兄夫婦と両親が別々に会話をしていて、テレビもついている時に、その三つの情報を同時に把握することが出来ます。多分、全部記録しているというよりは、キーワードを聞き逃してないということだと思います。

 実は、高校生くらいまでは、「皆そんなもの」と思っていたのですが、大学に入って色々な人と触れ合う中で、「そうじゃない人」もいることが分かりました。私の母親とかは、まさに逆で、テレビに集中している時は、他の会話とかは聞こえなくなるそうです。逆に、私は、そちらが信じられないです。

 私は、訓練して得た能力とは思ってなくて、さらに、子どもの頃の話を聞いてみると、小学校の低学年の頃から、テレビを見ながら、宿題をやり、兄と母親の会話も聞いていたみたいです。

 実際のところ、それが訓練された結果なのか、それとも脳の構造による違いなのかは分からないですが、本人すら覚えてない記憶の中で、そうだったことを考えると、「そういうのに向いている脳」だったと考えることで、一定の「納得」を得られます。


 また、例えば、電車の中や、回転寿司とかで、人前であろうが、はしゃぎまくる子どもがいます。それは、「子どもは皆、非日常に入ると興奮する」ということでしょうか?子どもの頃の話を聞くと、比較的、人の目がある所では、おとなしくしていたそうです。

 勿論、親の問題意識もあって、最初にはしゃいで「注意するか」「放置するか」の違いもあると思いますが、でも、もっと、根源的な部分で、この場合は、非日常に入るとテンションが上がる、人の目を気にする、気にしないという部分に、後天的な影響だけじゃあなくて、脳の構造によるモノがあっても、不思議じゃないと思います。未知を楽しむ脳、怖がる脳、活性化する部分、しない部分、その辺りの研究も不十分なのかも知れませんが、科学的な証明の有無とは関係なく、世の中の子どもの態度の違いとして、私は、納得ができる部分です。


 犯罪脳に関して書きます。脳の構造に遺伝的な違い、もしくは、個人差があるというのが前提です。形が違うのもあるでしょうが、外から受けた影響に関して、どのような内部で反応し、どの部分が活性化し、あるいは、不活性となる、そういう部分が「違い」だと思います。

 例えば、私は、幼稚園か、小学校の低学年の時に、白い紙に絵を描くのが好きでした。白い紙に、どんどんと「自分が作った形」が出てきて、そういう部分が好きでした。でも、逆に、「自分が思うように形にならない」とか、そもそも、紙に向かうよりも、走り回ったり、木に登りたいという理由で、絵を描く事が嫌いな子どももいると思います。

 そういう子どもの頃に、何を好きになるか?の部分などで、「脳の構造の違い」があったとしても、おかしくはないと思います。「構造の違い」というと、全く違うようなイメージがわくような気がしたので、ここからは、「個人差」と書きます。脳の個人差の中で、「絵が好きになる脳」、「運動が好きになる脳」があっても、私は、不思議じゃあないと思います。私は、子どもの頃に、電卓とか好きで、押しまくっていたそうです。

 脳の個人差は、結局、脳内の物質とか、部位の活性の違いだと思います。そして、いじめで考えた時に、暴力であるなら、「対象が苦痛で顔を歪めた」ことで脳が活性化したり、それが「楽しい」と思える部分だと思います。それが先天的なのか?という部分には疑問があるかも知れません。しかし、例えば、性癖などで考えてみれば、どうでしょうか。私は、エロマンガとかを読みます。それは、性的興奮を導き出すモノとして、何を選んでいるかの違いです。勿論、後天的な因子も多い様に思えるのですが、グラビアや、アダルトビデオなどの実写系を好むのか、マンガやアニメなどの非現実系を好むかの違いに、脳の個人差が100%絶対に関係ない、と言えば、そうじゃないと思います。

 例えば、暴力性の部分。格闘ゲームをする人は、ゲームの中のキャラクターとは言え、ボコボコにすることに快感を得ていると思います。ゲームによっては、結果が殺人になる場合もあります。そのような恐ろしいモノを楽しめるかどうかは、脳の個人差の部分もあるように思えます。ただ、格闘ゲームをする人は、現実に、弱者をボコボコにする予備軍だ、と言われたら、そうじゃないと思います。しかし、100%そうじゃないとは思えません。少なくとも、格闘ゲームは暴力だから嫌いだ!という人よりは、向いているかも知れません。暴力が基本的に否定されている社会において、格闘ゲームを好む、好まないの差に、親とか環境の影響だけじゃなくて、脳の個人差も、少しは、関与している…と考えることは、不自然でしょうか。科学的に、相関のとれた結果が出てないから、出てないとしたら、そう考えるのは間違いでしょうか?

 後、私は、犯罪脳だと思います。エロマンガを読んでいる時は、非実在青少年とか、後、強姦罪とか、社会のルールに抵触している行為をみて、性的な物を喚起させています。また、格闘ゲームは弱いですけど、好きです。また、もっと、重篤なのは、本気でマンガの中のキャラクターを憎んだり、また、逆に壮絶な悪には、崇拝のような気持ちを持ったりします。また、自分でもやばいな、と思ったのは、あるゲームをした時に、最後の敵が、「生い立ちや境遇的に充分同情に値する」と思いながら、多分、気が狂ってしまっていると思うのですが、主人公達の母親に行った行為を見た時に、「何がどうあってもコイツはぶっ殺す!」と思いました。能力をガンガンに上昇させて、最大火力でボコボコにしました。

 これらは、全て、ゲームやマンガに関してなのですが、格闘ゲームをしない人、マンガのキャラクターに憎悪を覚えたり、逆に崇拝したり、殺意を覚えたり、そういうことに無縁な人よりは、確実に犯罪に向いていると思うのです。それは、私が生まれてからの状況によって作り出されたモノであるのと同時に、何を好み、何を選択した中で、脳の個人差があっても、おかしくないと思います。また、創作の中で欲求を満たすことを現実に持ってこないのは、脳の個人差以外の部分かも知れません。個人差の部分かも知れません。極論を言うと、社会的な権力を持ち、体格に恵まれて、何をやっても肯定されるような人は、ゲームの中の暴力を、現実に持ち込むかも知れません。勿論、個人差で説明できない部分の方が多いです。

 犯罪脳に関して掘下げます。ここで私が、4年前に書いていた文章を、もう一度、引用します。

犯罪脳というモノがあるらしい。それは、脳の犯罪を起こしうる構造をもった脳らしく、100人に1人は犯罪脳を持っているらしく、さらに、犯罪脳の持ち主を100人くらい集めてくると、その中の1人は、やるらしい、犯罪を。

 つまりは、1万人に1人は、脳の構造的に犯罪者になりえて、さらに、そこに、取り巻く状況等々を加味すれば、1万人に1人では、すまないだろう。

父親刺殺事件と『ひぐらしのなく頃に』と犯罪脳等を考えてみた。【社会】

 この部分なのですが、読み返すと、当時の文章力では、不十分な部分があるので補足します。勿論、前提として、脳の構造の解明の研究が不十分だったり、もしくは、とんでもだったりするのかも知れません。

 私は脳に個人差があることを認めています。それは、何を得意とするか、何を好むか、何を不快とするか、などの部分です。その個人差の中で、犯罪者に共通するパターンがある、というのが「犯罪脳」という考え方です。それが、当時、テレビでやっていたことでは、確率的に100人に1人は、犯罪者に共通するパターンを持つ人がいる…ということです。あくまで確率であって、「100人に1人犯罪脳を持つ人がいる!」じゃあないです。

 そして、犯罪脳を持つ人が、犯罪者になる、じゃあなくて、確率的に「犯罪脳を持つ人」を100人集めてきたら、その中の1人が犯罪を実際に犯す、という話です。多分、このような部分は、科学的に証明されてない部分だと思います。逆に言うと、科学的に証明できるのか?とも思います。

 最初から考えると、「1万人に1人」の確率で、犯罪に向いた脳の持ち主が、実際に犯罪を犯す、ということです。他の99人の「犯罪脳」の持ち主は、犯罪を起こさなくて、また、犯罪脳じゃなくても、犯罪をする人、色々なケースがあると思います。仮に、1万人に1人という確率を、日本人口に当てはめると、1万2000人くらい犯罪脳を持って、犯罪をした、ということになります。ただ、実際に警察に捕まるか、どうかの問題もあります。捕まってない万引き犯なども沢山いるでしょう。なので、実際に捕まった人を全て、脳を調べて、また、捕まってない人も調べるなんて、無理でしょう。だから、「犯罪脳」という考え方は、科学的に正しくないのかも知れません。でも、私の「納得」は、それとは、別のことです。

 例えば、私は、犯罪脳の持ち主だと思います。多分、弱者をボコボコにすることや、逆に強者をボコボコにすることに、快感を覚えます。家庭菜園に寄ってくる虫を霧吹きで撃退している時に、悦に近いような感情を向けます。でも、それを人に向けたりしません。それが、悪いことであり、想像される結果や、相手の気持ち、社会的な制裁が想像できるからです。でも、多分、女性や子どもに暴力を振るうことなどで、興奮する脳の個人差は持っていると思います。性暴力という意味では、そういうマンガを読んでいる訳ですから。でも、実際に、現実の人間に迷惑をかけることはしない、できないのは、リスクの計算と、相手の気持ちを考える部分です。背反するかも知れませんが、弱者をいじめたい欲求や興奮と、相手の気持ちを思いやる心は両立すると思います。やったことないから想像でしかないのですが、SMなどは、そのバランスで成り立っていると思います。あくまで、想像です。

 ここで、滋賀県の大津市の「いじめ殺人事件」に関連させます。犯罪脳というよりは、「いじめっ子脳」という感じでしょうか。正当じゃない理由をつけて、外見等々を理由をつけて、弱者をいたぶる。数の暴力をする。それは、単純な悦なのかも知れませんし、もしかしたら、「これは社会的に正しいことで、必要なことだ!」と確固たる信念があるのかも知れません。どちらも正しいことじゃあないと思いますが、脳の個人差とは、関係なしに起こりうることだと思います。勿論、肯定できる部分ではないですが。

 思えば、私は、中学時代に、私だけにではないですが、クラスでスポーツも、勉強も得意な人から、技術家庭で使った真鍮の金属片をストーブで熱したモノを襟から首に落とされたことがありました。今思うと、それで喜んでいた彼は、今、どうなっているかは分からないですが、かなりヤバイ状態だったのかも知れません。また、彼が学校という社会の中で制裁を受けた感じもなかったので、昔から、学校は役に立たなかったのかも知れません。この焼いた真鍮も、今、思えば、理解の範囲を超えていたと思います。

 社会や、インターネット、テレビ、マンガ等々が子どもに影響がないとは思えません。むしろ、影響は物凄くあると思います。しかし、同時に、テレビで「熱いおでん」を顔にぶつけて笑いを取っていても、それを実際に、兄弟とか、クラスメイトにするかは、また、別の問題だと思います。バラエティ番組の中で、弱い者いじめと取れることが行われていても、それを見て楽しむとの、実際にやるのは、別です。格闘ゲームを楽しむのと、実際に、「格闘ゲームの技を試したかった」と、ホームレスの人を殺すのは別です。アダルトビデオで見て喜ぶのと、アダルトビデオでやっているようなことを、少女を誘拐してきて、最終的に殺すのとは、別です。

 それらの問題を考えた時に、昔は、4年前は、情報の影響は多大だから、判断力の低い子どもが影響されるのは仕方がない、と思っていたのだと思います。しかし、4年経って、滋賀県の大津で起きたことのニュースを読んでいて、「全裸で射精を強要する」、「雀の死骸を口に入れる」、「自殺の練習を強要させる」というようなことが、本当に私を含めた社会の影響の延長として起こりうるのか?と思えて、それだけが原因とは到底思えなかった訳です。勿論4年前より、より、色々な情報が増えて、触れる機会も増えてますから、「影響」は多いのかも知れません。

 しかし、最終的にあるのは、「相手がどう思うか」であったり、仮に、弱者をいじめることに悦を感じる性格であっても、行うことによって結果や社会的なリスクの想像だと思います。欲求を欲求のままに表に出さないは、想像力や、リスクに関する意識だと思います。

 それらを考えた時に、相手が自殺するまで「いじめる」ことが、社会の影響だけでは納得できなかったのです。そのようなことを考えた時に、社会の影響だけじゃなくて、「弱者をいじめて喜ぶ、想像力とリスク意識が欠如した脳の個人差がある」と考えた方が、起きたことに対して「納得」ができた訳です。「納得」とは、そういうことです。それが、絶対的に正しいとか、そういうことではないです。


 例えば、お隣の国、韓国では、子どもの狙った性犯罪者に対しては、本人の同意無しに「治療」を行うことができるようになったそうです。日本で同じことをするのか?できるのか?と考えれば、倫理的な問題があると思います。

 だけど、同時にニュース番組で観ていると、自分が、自分ではどうにもならない性犯罪者であり、再犯に結び付く欲望が消せないから、薬物による治療を望んでも、日本では、使えない薬だったりして、本人が望んでも治療を受けれない人もいるそうです。性犯罪と考えた時に、薬物の治療まで必要な事柄に対して、脳の個人差は絶対的にないとは、言えないと思います。犯罪脳に対するなら、性犯罪脳でしょうか。そして、そのような個人差が存在する事を認めたり、納得することは、即、差別に繋がるものでもないと思います。

 仮に、犯罪脳という考えがあるなら、多分、小学校の低学年の時に、身体検査の中で、脳の構造も調べた方が良いのかも知れません。そして、「君は犯罪脳だよ」と伝えることもできるのかも知れません。しかし、それは、倫理的な問題が大きすぎて、実際には、できないでしょう。でも、例えば、自動車教習所でやるような、性格判断テストみたいなモノならどうでしょうか。

 結局、それらの結果があっても、倫理もルールも飛び越えることは起きるので、防ぎようがないのかも知れません。実際に、少年院に入った人や、刑務所に入った人の脳を調べるとかも、倫理的に無理でしょう。

 しかし、もしも、私の個人的な「納得」を拡張するのであれば、それをしたい訳じゃあないですが、自分では想像もできない事柄、「いじめの練習をさせて結果的に、自殺に追い込む」というようなことが起きた時に、「これは社会の影響だ!」とか「学校が悪い!」とか「親が悪い!」とかの考えとは別に、「脳の個人差」というのも、観点の一つと考えても良いと思います。

 少なくとも、起きた事柄に対して、社会的な影響という観点、個人の性格などの観点で理解出来ない時に、科学的に正しかろうがなかろうが、「脳の個人差」、「犯罪脳」という観点を増やした方が、「納得」が出来た、というだけです。

 では、犯罪脳を持つ人が潜在的にいる状況をどうするか、犯罪を犯した人に対して、脳を調べる必要があるのか?重篤な場合は、本人の同意なしに治療が必要か?と言えば、私には難しすぎて、どうこうできる問題ではないと思います。倫理的な問題が大きすぎます。私個人でいうなら、「私の性格の歪みは脳の構造のせいだよ」と教えてくれた方が、気持ちが楽になります。実際に、分析はされてないですが、少なくとも自分では、「そもそも脳が変なのだろうな」と思っています。

 最後に、起きた事件に対して、起こした人たちに関して、脳の個人差という観点でも、「納得」したかったのは、今後、同様のことが起きた時に、向き合う方法や、理解の幅を広げたかったのかも知れません。「理解できないで終らせたくない」というのが、動機の部分で、元もとのエントリを書いた時には、言語化されていた部分ではないのですが…。

 もしも、脳の個人差の中で「いじめることで喜ぶ脳」があるなら、その欲求を充足できるモノは、創作やインターネットの中に山のようにあるでしょう。自分が体格的、親が政治家、親が金持ち、仲間的人数的に、パワーを持った時に、その欲求を、現実の人間に対して、「いじめ」という形で行うには、倫理や道徳的な問題が、まず、あるハズです。そのハードルさえも飛び越える、社会的な状態、性格の個人差、脳の個人差があるので、あれば、最終的に行き着く「リスク」というのを、「いじめっ子」という名前の犯罪予備軍に伝えるべきなのかも知れません。

 未成年であれば、仮に犯罪をしても、同級生をいじめ殺しても、少年法が守ってくれる。でも、今や、インターネットの力、不特定多数の人間が行動する結果として、実名や顔写真がさらされ、インターネットに消えない情報として残り続ける。多分、今後、就職などの際に、人事担当者が、就職希望者の名前で「検索してみる」と言う事が増えるでしょう。勿論、担当者や会社の考えはあると思いますが、ある一面では、人生の多くの部分が、封鎖されるように思えます。

 いじめの延長には、そのように、確実に人性が終了するリスクがある、ということを伝えていくことも必要なのかも知れませんが、それを聞いても、飛び越える人はいると思うので、結局は、ループしていくようにも思えますが…。

 もしも、社会が完全に健康になった時に、「いじめ」や犯罪が完全になくなるのであれば、「犯罪脳」というのは、そもそもの間違いだったと言えるのかも知れませんが、それも、分からないことだと思います。

終ります。

 このエントリを書いたのは、そもそも、読んで欲しい人がいたから書いた訳ですが、何しろ匿名の相手なので、読んでくれているかどうかは分かりません。彼か、彼女か、小学生なのか、中学生なのか、高校生なのか、大学生なのか、私よりも年上なのかは分かりません。ただ、匿名でコメントをしても、コメントすることで、コメント以外にインターネットに残る情報があるよ、ということは、伝えておきたいと思いました。勿論、インターネットの知識として、持ち合わせておられるかも知れませんが、そう思えなかったモノで、老婆心ながら、最後に書かせてもらいました。