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匿名の投稿と事実と創作・「ふれあい方」に関するブーメラン・アタック(傲慢)

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 ちょっと前に話題になっていた2ちゃんねる転載記事に関して、「事実として語られる嘘」等々に関して、最終的に、考察したことは、以下のようなことでした。

結局は、「嘘」だとしたら、どのように付き合うか…という部分じゃないかと思います。勿論、それは、インターネットを続けているうちに、鍛錬されていくような気もしますが、物語に関しては、「事実を語った嘘話はNG」と打ち切るよりも、それから感じたことや、触れ合い方を考えていきたいな…と思いました。

「ゲーセンで出会った不思議な子の話」に関して匿名の物語を嘘・事実なしに楽しむ方法を考えたい。 - 伝外超スデメキルヤ団劇

 エントリを書いていると、自分の書いたことがブーメラン・アタックの様に自分に返ってきてしまうことがあります。今日、そんなことがありました。「事実である」という語り口の2ちゃんねる転載記事を読んだからなのですが、読み終わった後の感想は「創作だな。」だったのですが、それが、ブーメランで直撃でした。

 どんな記事だったのか。「人を殺した…」と冠される記事なので、ちょっと物騒な内容です。殺人で、刑期を終えた人の、告白…という感じです。

 以下の記事。

1:名も無き被検体774号+:2012/01/28(土) 15:19:22.58 id:yWmMvD15P

失礼な質問したら今度おまえの番だからね^^

スペック?
41歳

飲食店経営
愛車 軽自動車
人を殺したけど質問ある? 刑期は終えてでてきた:キニ速  気になる速報

 「創作です。」とも、「釣りでした。」とも書かれてないので、「嘘である。」とは、断定出来ないのですが、「創作だろうなぁ。」と思った訳です。それは、ディティールだったりするのですが、1さんが復讐に至ったキッカケ、「父親のボールペン」を復讐相手が所持していた…という下りで、「創作臭」が、ぶわっと感じました。

 事実は小説より「奇」…なんて言葉もありますから、それが「創作」と断定は出来ないのですが、「事実である」確証もない訳で、私の心が「創作」寄りに振れていったのは、事実です。

 で、そう思ってしまうと、私の中の「記事への興味は消えうせ」、ただただ、ページを下にスクロールする感じになってしまいました。「事実である」という語り口の付加価値、興味…というのが、喪失した時に、気付きました。件の「ゲームセンターの女の子」の記事は「創作かな?」と思った後も、「物語」として、楽しめましたので。いや、勿論、「事実である」可能性もある訳ですが…。


 しかし、それで、「つまんね」で、読んだ内容を放り出してしまえば、自分で放ったブーメランを直撃することになりますから、せめて、そのブーメランを受け止めたい…と思いました。記事を読んで、感じたこと、考えたことは何か…。それは、1さんが主張したい部分を考えることじゃないか…と思いました。勿論、転載ブログなので、この後の続きの部分があるかも知れませんが、その辺りは了解の上で…。

なぜ このスレを立てたのか?
自分みたいな人間もいるということを伝えたかった。
すぐに人を殺したら死刑という人にも考えてほしかった(2ちゃんねるは特に多いから)

もちろん人を殺すことはいけないこと。
こんなもん誰もわかること。
俺はそれを理解した上で復讐した。
Aが父を殺さなければ俺は人なんて殺してない。
Aは人の善意を踏みにじんだ屑だから。
俺も殺したので屑なのは理解してる。

でも俺が屑ひとりを殺したことで、他の人が被害にあわないですんだと
考えて前向きに生きてます。

 復讐は、是か非か。1さんは、このことを考えて貰うために、このような内容を書かれたのかも知れませんし、そうじゃないかも知れません。実際の部分は分かりません。私は、死刑も反対だと思いますが、「復讐」もダメだと思います。それが、殺人にまで及んでしまうなら、なお…。

 私は、大切な人を殺されたことがないので、感情の部分では、こういうことは、論じられないのですが、「殺してしまう」と、Aさんの事情だって分からないですし、絶対に解決にならないです。「殺人罪」という「前科」が一生ついてくるでしょう。そして、「人を殺した」という事実と、その時の光景が「一生つきまとう」気がします。そう考えたら、私は、「復讐」がダメ…というよりは、「自分では出来ない」という感じでしょうか。

 さらに、「殺人即死刑」にも「反対」なのは、もしも、自分の大切な人を殺されたりした時に、自分が想像もできない絶望と心理状況により、殺人を犯してしまった時に、「自分の死」とも繋がるからです。抑止力…というのもあるかも知れませんが、それすら凌駕する「憤怒」に至ったとしたら…。

 まだなってない人、やってない人は、「自分はしない」という考えの元に考えてしまいそうですが、自分も「そうなる可能性がある」として、考えないと、それが自分、もしくは、知人・友人に関わってきた時に…とかなるのだと思います。



 というようなことを、「創作だな」と思った後に、考えました。結びの考え方は、正直、私には、賛同できるモノじゃあなかったのですが、そこから考えさせられたこと、考えたことは、確かに、事実でした。

 この記事も、はてな界隈で語られるでしょうか。それとも、「事実という語り口」というブームは、過ぎてしまったかな。こまねち。