ここ最近、色んなところで青二才という言葉を聞くようになったのですが、わたしが『はてなアンテナ』に加えた時は、そうでもなかったのですが、知らない間に有名ブロガーになられたのですね(まぁ、彼は私のことを認識してないでしょうが)。
つい先ほど、なかなか、苛烈なエントリを読みました。話題にしたいところだけ引用するので、それ以外のところは、是非、元エントリも読んでみて下さい(興味があれば)。
僕は学校に対してもこの「公共財」の概念は適用してもいいと考える。【中略】
僕は自分の思想を「保守的な(個人的)功利主義者」と定義してるから言うよ!明らかに迷惑な生徒は「人権の範囲内で」殴られて然るべき…いや、殴られない現状こそがおかしいと考えてる。(※宿題忘れて殴られたことあるよ?俺だって。)
体罰と「想像力」と「公共性」と… - とある青二才の斜方前進
この部分に関して『はてブコメント』したこと。
- もしも、体罰(暴力)を教育現場、学校の効率性、公共財と考えるなら、教職課程において一定のルールに基づいた体罰(暴力)の実習が必要だと思う。個々の裁量に任されている間は、限界があると思う。
この部分って、まさに、以前、私がエントリで書いていたことが関係しているな、と思いました。以下は、その引用です。
少なくとも、体『罰』というからには、一定の方法を定める必要はあるように思える。方法と形式と。座禅を組んで、お坊さんが棒で肩をピシっと打つのは、少なくとも暴力だとは思わないし。
後、『罰』というからには、受ける側の『了承』も必要だと思う。ルール作りも必要という部分に連関するかも知れないけど、『罰』だとしたら、量刑も執行も教師が1人でやっている感じだものな。
教師と生徒間の暴力が『体罰』という都合のよい言葉に置き換わっていること(SNS型ナカノちゃんねる)。 - 伝外超スデメキルヤ団劇
私は、体罰(暴力)には反対なのですが、ある一面で体罰という暴力が存在しない世界に危惧している部分もあります。でも、それは、ちょっと別の話なので、おいときます。
体罰を授業や教育現場の維持に必要?
まぁ、公共財としての授業等々を妨害する存在を排除するために『暴力』が必要なのか?と言えば、それ以外にも方法はあるんじゃない?とは思います。暴力が有効だからこそ、その効果に依存して、「指導」に関して思考停止する人もいるそうです。
殴れば言うことを聞く。それって先生?まぁ、一番、極端に考えればですが…。
ただ、それだと広がりがないと思うので、『体罰』を公共財を守るために必要と考えるなら…。
必要と考えるなら教職課程で体罰の教育が必要だと思う。
と思いました。暴力をともなうのであれば、加える暴力の手段とか、力加減とか…教科を問わず武道が必修になるとか…。思いつくままに書き連ねてみると…。
- 素手の場合は平手で行う。
- 体罰用のムチとかがある。
- 反撃されない体力、体術を養う。
とかでしょうか…。さらに、先日考えていた、量刑や執行の部分を考えると、体罰を『罰』と考えるなら、執行に妥当性が必要だと思うのです。つまり、「○○だから××という罰を受ける」というルールです。例を考えると「遅刻したから平手打ち1回の罰を受ける」とかでしょうか…。
さらに簡単な条件付けに留まらない複合的な事柄に対しても体罰を執行するのであれば、その事象に対して執行する体罰を決定する手続きにあるでしょうね。今は、その『手続き』が個々の裁量、個性、人間性、経験に委ねられていることが問題だと思うのです。
その辺りが『体罰』が『罰』じゃあなくて『暴力』になる部分だと思います。
…ちなみに、この付近で「真面目に書くのがアホらしい」と思ったのですが、どの辺りか考えてみて下さい。
終わります。
私は体罰(暴力)は、やっぱり反対なのですが「必要である」という前提で考えると、色々と見えてくるモノがありました。執行する側が一定の手順に基づき、受ける側もそれを了承した時に、体罰は『罰』として成立するのじゃないか?と思えたのですが…。
それでも、暴力は暴力でしかないように思えます。
関連記事。
大阪で起きた体罰と入試停止の問題の記事への反応みていると・・・。少なからず、中学浪人をさせてでも入試を中止して、募集を停止すべき!という橋本市長に賛同する意見があるのだが…。
体罰を嫌う正義の氾濫に関して(SNS型ナカノちゃんねる実験)。 - 伝外超スデメキルヤ団劇
終わります2。
書いてみて、私のエントリは、あんまり『はてブ』とかが集まらない理由も分かりました。これは、欲しいっていうフリじゃあないですので。