多分、福祉に携わる人が完成された人格である必要はないのかも知れないが、兄や父親が福祉に関わっている時に、障害者には優しくても、女性や芸能人、ハゲている人、肥満の人を罵倒しまくった時に、やるせない気持ちになって、正直、絶対に許せない気持ちになって、ようは、何か許せないという感じで、ムカついていたのだけど、その最終的に行き着いた部分は。
『ダウンちゃん』という呼び方だった。
何か別の愚痴話の延長で、酒を飲みながら、母親に、「そもそも『ダウンの人』とか、そういう呼び方が(福祉の現場は知らんけど)ムカつく。安易な略称は卑称に繋がる。」と自分の中のドロっとした感情をブチまけていたのだけど、手話とか、手話通訳をしている母親、父親、福祉関係の仕事をしている兄は、当然、わたしよりも業界に詳しい。
だからか、母親が。
「ダウン症患者の人を『ダウンちゃん』と愛称で呼ぶことはある。」
と言った。私は。
「そうなん…。」
と言って、意気消沈した。自分の怒りが、やり場のないというか、そもそも、根拠を持たない、空振りの、いない敵を作り出したような怒りだったみたいで、自分を恥じて、そして、やるせない気持ちになった。
そんなことが数日前なのだけど、今日の午前中、なんとなく『ダウンちゃん』という検索をしてみた。そしたら、以下の記事がヒットしました。
わが子の二男はダウン症。その二男と一緒にいたり、通園施設の親御さんたちと集う機会があったりすると、「お宅の息子さんはダウンちゃん?」とか聞かれることがあります。またいろいろな方のブログを拝見したりすると、ときどき「ダウンちゃん」という表現を見かけます。
この表現にはどうしても私は抵抗があります。「〇〇ちゃん」というと確かにかわいい響きがあります。言っている人にも悪気はないのかもしれません。
ここで一冊の本があります。
「ダウンちゃん」と呼ばないで!: ☆マリンパルパル☆
この記事の続きも、読んで欲しい部分ですが、私は、この記事が検索結果に現れた時に、その記事タイトルを見た時に、自分の怒りが全く根拠がないことはなかった。いや、根拠はなかったのだけど、少なくとも、その感情は、全く意味のないモノじゃあなかったと思って、救われたと同時に、この記事を父、母、兄に読ませなければ!と精神的にドヤ顔をしていた。
そして、数時間して、非常に、虚しい気持ちになった。分からない。多分、『ダウンちゃん』という愛称?は、多分、このような問題意識とは別に使われていくだろう。他にも同じような気持ちをしている人がどれくらいあるか分からない。
私は、たとえ、そのつもりじゃあなくても、嫌がる人がいたら、略称とか、愛称は使わない方が良いと思っている。だけど、『ダウンちゃん』という言葉が使われている現場や背景のことを何も知らない。
このようなことを書いても、虚しさは、全く埋まらない。もしかしたら、根拠のあるなしに関わらず、怒り狂っていた方が、まだ、満たされていたような気がする。
だからか、理由が分からず虚しい。何かが分からないことで、ドンドンと自分の内面が空っぽになっていくのじゃないか、そんなに、焦燥はしてないのだけど、今の自分の感情を文章にして書き表さないと、精神的にヤバいことになるのじゃないか、と思って、エントリに書いてみた。
この気持ちが頭の中に渦巻き出した時に、最初に思い浮かんだ言葉は、「救われたい」だった。