ジャンプ予想を書く!伝外超スデメキルヤ団劇

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いじめっ子の脳に違いがあるかもしれないことに納得するのは「違い」を肯定し異常者と差別することだったのか。少なくともそのつもりはなかった。

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 昨日書いたエントリ「社会やインターネットの影響を受けて子どもが子どもをいじめ殺すなら大人や社会にも責任はあると思うが…飛び越えている部分を感じる。 - 伝外超スデメキルヤ団劇」にコメントがあったので、コメントに関する返信を書いてみます。色々と、考えさせられる部分がありました。

つまりひどいイジメをするような奴は「われわれ」とは脳に器質的差異を持つ異常者であり
いわば「人間じゃない」のだと。
あなたはいまそう言いきった。そのことの意味について、自覚がおありで?社会やインターネットの影響を受けて子どもが子どもをいじめ殺すなら大人や社会にも責任はあると思うが…飛び越えている部分を感じる。 - 伝外超スデメキルヤ団劇

 そのつもりがなかったので、自覚がなかったです。琴線に触れられたのは、以下であろうか?

いじめっ子が示す感情移入反応は、扁桃体(へんとうたい)と腹側線条体(ふくそくせんじょうたい)の活動によってゆがめられたものだと思われる。扁桃体や腹側線条体は脳内領域の中で報酬や喜びに関係すると考えられている部位である。「つまり、いじめっ子は人の苦痛を見るのが好きだと考えられる。この考えが正しい場合、彼らは弱い者いじめをして他人を攻撃するたびに心理的な報酬を受け取り、反応の強化が進んでいることになる」とレイヒー氏は話す。
いじめっ子は感情の統制に関係する脳内のある部位が活動していない:アルファルファモザイクだった
私は、社会の影響よりも、このような脳の構造に関わるような部分の方が、納得できます。果たして、「動物の死骸を口に入れさす」ことが出来る人の脳はどんな感じなのか?

 引用元のソースが信頼にたるか?の問題はあるのかお知れませんが、私は、動物の死骸を口に含ませるという行為ができる人は、先天的、もしくは、後天的な脳の構造の違いがあるなら、そっちの方が納得できると思っただけです。

 脳に器質的差異を持つ異常者…に関して、言及してみると、例えば、私はエロマンガとか読みます。多分、その時に、頭の中が活性化している部分、興奮、喜びの部分は、きっと「異常」でしょう。実写じゃなくて、絵に興奮する。マンガの中の背徳的な行為を肯定している…と思われると思います。また、エロじゃなくても、本気で登場人物のことを憎んだり、また、悪役の行動に興奮したりします。魔人探偵脳噛ネウロでは、生きたままノコギリで自分で腹を切断させる、妻子を人質にとった上で、毒薬をのませて、血を吐いて「6」の文字を大きく描かせた上で本人は死に、妻子も殺す…という悪逆を、私は、「すげぇ」とエンターテイメントとして、楽しんでました。異常な脳だと思います。

 しかし、仮に、脳が異常であっても、それを現実の人間にして良いことじゃない。他人に迷惑をかけてはいけない…というのは、異常な脳と共存できる倫理だと思うワケです。

 でも、それを飛び越える部分があるなら…ループになりますね。

単純化されたオカルティックな要素還元主義は歴史的に・必然的に差別につながります。
黒人は人間の亜種であり使役されることに向いている とか エタの血がどうとかね。

 引用した脳に関するニュースがオカルティックかどうかは分かりません。ただ、脳の構造に違いがある、なら、納得ができる。と思ったままです。もしも、それが差別に違いがあるなら…先天的、後天的な脳の違いをみとめて、必要なことをした方が、私は良いように思えます。

 結局のところ、「いじめ」が起きていても、止めることができなかった訳ですから、それ以前の、社会が抱える問題の方が大きいのかも知れませんが。

「イジメっ子にも人権があるのだから」異常者あつかいするなんてヒドい!って言ってるんじゃないですよ。
よろしいですか?よく考えてくださいね

 はい。

人間が状況次第でいくらでも残酷に、凶暴になれることは歴史が証明しています。
そこで「そんなのは“やつら”だけのことだ」「自分には関係ない」そのような鈍感さこそがさまざまな途方もない悲劇の下地になってきた。
そのことも歴史が証明しています。

 少なくとも、自分には関係ないとは思っておりません。「関係あるからなんとかせねば」とは書いてないですが、「脳に違いがあるなら、”やつら”のことは知らない」とも書いてないです。

 なので、その部分に関しても書いてみると、私は「関係ない」とは思っておりません。しかし、昔は、いじめ殺人とか、少年犯罪のニュースを読んだ時に、「社会の病理が少年に影響している」とか考えていたのですが、それでは、自分の中で納得できない部分があるように思えてきたのです。社会の問題であるなら、私にも、何かできることがあるように思えるのですが、脳の個人差であるなら、私にできることは少ないように思えます。

 ただ、一般的な倫理や道徳を越えた事件が起きた時に、文系的なアプローチだけじゃなくて、理系的な、科学的なアプローチもあっても良いのじゃないか、と思います。

いちおう…ですが引用元の記事に共感し、筆者に代わって反論してる
なんということではまったくナイのでご注意を願います。

「手加減して叩く」ことが子供たちのよき模範になるだろう、なんて、あまりの平和ボケっぷりに眩暈がしますね。

 できれば、それは、引用元の記事で書いて欲しかった。。。


 一つ思ったのは、「違いがある方が納得ができる」ということも、人の心の柔らかい部分を刺激するのだな、と思いました。その部分は反省します。

 ちなみに、定型句としている文末の4文字も、腹が立つ人は、腹が立つでしょうね。書きますけど。こまねち。