懐古厨乙!と言われたら「こんにちわ懐古厨です。」と言うしかないのですが、私は「大学生でもアニメを観る人」から「アニメはあんまり観ない人」になりました。ジャンプは読むけど。
髪の毛の色の違う人々が同じことの繰り返している…という風にどこかで思っちゃったんだな。
最後に観て、最後まで観れなかったのはウルフズ・レインだったっけ。
EMOTION the Best WOLF'S RAIN DVD-BOX
差て。以下のエントリが話題になってました。
- 俺たちオジさん(オバさん)には今、歌う歌もなければ、聴く歌もない!(富澤 一誠) - 個人 - Yahoo!ニュース
- 正直、私は今のチャラチャラした曲よりもフォークとか言ってた頃が好きです(昨晩、アメトーークを観て、パフュームと、きゃりーぱみゅぱみゅさんが好きなのを再確認したけど)。
でも、多分、元記事で書かれているような音楽って世の中では少なくなっているような気がする。ポスト「南こうせつ」とか育っているのだろうか??
しかし、私が読んだ『はてな』の人々よりも『苛烈』な印象はなくて、私はどちらかと言えば、共感に近いモノを感じた。というか、聞き流している部分が多いからだろうかな。
それは、さておき共感の部分は、『歌』にも言えるのだけど、『アニメ』だったら、同じようなことをいえるのかな?とか。マクロス・フロンティアのパチンコ台はめっちゃ面白くて(メガネの人が宇宙空間に放逐されて大当たり)好きだけど、テレビでやっているのは、ちょっと観て、観るのをやめてしまった。
最近の『アニメ』で盛り上がる人を見ると「昔のアニメは面白かった」とか、言いたくなってしまう。
俺(オジさん)今、観るアニメがない?
まぁ、エヴァは新劇場版を観ているし、最近では『攻殻』のスタンド・アローン・コンプレックスを全部見たりしたのだけど…。正直、深夜テレビを観ていて、番組サーフィン中にチャンネルがアニメに切り替わっても、途中でやめてしまう。『サイコパス』は天野明先生の絵が嬉しくて、5分くらいみたけど。まわるピングなんとかを眺めていたら、近くで転寝していた母親がうなされた。
『観るアニメがない』というよりも、そもそも『観ない』が近くて、新しいのを観ると、昔の面白いのが思い出される。その関係で、カラオケで歌うアニソンも昔のモノが多いし。
懐古厨乙!
でも、多分、新しいアニメを観て湧いてくる感情は、きっと、「アニメを手放しで喜べた自分」が感じていた感情なのだと思う。アニメは途中で観るのをやめた(少なくなった)けど、ジャンプは読み続けているのは何だろうか?動画と静止画の違いはあるかも知れないけど。
会社員時代にガンダム大好き先輩が「最近のアニメは全然動かないなー」みたいなことを言っていた。以下は、昨晩、偶然観た昔のアニメの動画。
Ghost sweeper Mikami Opening
これを「なう」なアニメを観る人が観たらどう思うのだろうか?正直、オープニングは特に動くから比較はし難いけど、「荒いな」とも思うし、曲も「やぼったいな」とは思うのだけど、だけど、多分、私が一番アニメが好きだった頃なんだと思う。
アニメがお金になった時代とならなかった頃。
多分、私がアニメをやめたのは、深夜アニメがジワジワと広がってきていて、「放送はして」、「DVDで取り返す!」みたいな方法論が確立されようとしていた頃なんだと思う(確立しているかどうかは知らん)。
GS美神は日曜の朝にやっていたから比較にならないけど、7時台は「アニメを観たい子ども」と「野球を観たい大人」が対立する時間帯だったような気がする。
自分だけが見ているような感覚?
私がアニメを観ていた頃は、インターネットとかなかったし、「中学生でアニメを観ているとかヤバイ」時代だったから、隠れてみるモノだったし、楽しんでいることに背徳感があったりした。
インターネットを見ていると、高校生以下の世代でオタクと呼ばれることを嫌う風習はあるみたいだから、それは変わってないのかも知れないけど、世の中に存在するジャンルとして認知は広がっている気がする。
別に隠れたかった訳じゃあないけど、「自分だけが楽しんでいる感覚」はもうない気がする。それを求めてアニメを観ていた訳じゃあないし、今、観てない理由はそれじゃあないけど…。
今アニメを観ている人も観なくなる?
エジプトのピラミッドに若者をDisっている内容があるとか都市伝説かも知れないけど、今、なうなアニメを観ている人もやがてみなくなり、20年後とかには「昔のアニメは最高だった『まどまぎ』を越えるアニメはない」とか言う人が現れるのだろうか?
音楽も?
冒頭のエントリに戻すと、20年先には音楽事情も変わって、同じような記事が書かれるのかな?まぁ、80才くらいの人達が似たようなことを書いているかも知れないけど。
それは、アニメも一緒かな?
終わります。
書けるところまで、書きまくろうと思ったのですが、このあたりで、私の感情量はガス欠みたいです。
続けます。
ちょっと元エントリの引用などして。氏が言う…。
〈演歌・歌謡曲〉でもない。〈Jポップ〉でもない。良質な“大人の音楽”を〈Age Free Music〉
とは…。
スタイルはあくまで歌だが、それを超えてしまう“何か”があったということだ。換言すれば、歌は己れの自己表現の一手段だったということでもある。
ということらしい。あんまり槍玉に挙げるのはあれだけど、きゃりーぱみゅぱみゅさんの『つけまつける』とかは、氏にはどう映るのかな?あえて、初音ミクさんの動画を紹介してみる。
元曲が世の中に出た時にサビがラッシュで流れてたから、「なんじゃこの歌は?」と思ったのだけど、ちょっとしてから通して聞いて、歌詞も読んでみると「結構、良いことを言っているな」と思った。
音楽から自己表現は奪われたのじゃないだろうか?
既に関連エントリーで商業的な部分は触れられていたので、そこを引用します。lkhjkljkljdkljlさんが書かれていたエントリの引用です。
根本的には需要ないからそういう音楽って存在してないんじゃないかなあ。向こうだって商売じゃないですか。需要があるところにかならず供給は存在しますよ。だって儲かるんだもん。
ぜんぜん「自分らしく」ないじゃん - 24時間残念営業
記事タイトルにある「自分らしさ」に関しては、かなり考えさせられる部分があったので、また考えたいのですが(できたら)、音楽も、アニメも当然だけど、儲かる方に進んでいったのじゃないかな?と。その中で、『自己表現』は奪われた、或いは、失われたのじゃないかな?ジャンプの感想を読んでいても、作者の思いが全面に出ていたりすると、それをDisる声とかもあるし…。スケット・ダンスの篠原先生のキャラクターに対する思いとかは私は好きだけど、「気持ち悪い」と思う人もいるみたい(否定はしないけど)。
もしかしたら、可視化かも知れない。創作を通して自己表現することを嫌う声はあったのかも知れない。うちの父親はビートルズが流行っている時に、「歌詞があるから嫌」ということで、エレキの神様のなんとかとかが好きだったらしい。
商業的利益を追い求めるとは「売れる」を追求することであって、そこに『自己表現』がブレーキになるなら、それはなくなっていくかも知れない。
アニメも尖っていた時代。
自己表現じゃあないけど、マンガとかアニメに政治的主張みたいなのがあった気がする。ジャンプでは『元気やでっ』が連載されてたりした。
また、アニメで言えば「美味しんぼ」で以下のような内容が放送されていた。
究極のメニュー担当・山岡の上司が開いた新年会の席にて、コメの輸入自由化の是非をめぐり、アメリカ人と日本人の間で口論が勃発。しかもこのケンカは、ふとしたことから日米間の外交問題にまで発展する。
TVM アニメ 美味しんぼスペシャル 日米コメ戦争 - allcinema
1993年の放送。覚えている範囲だけど「米輸入化反対!」じゃあなくて、中間の着地点を探している感じはあった。ような気がする。最近のアニメを観てない立場だから、なんとも言えないけど、政治問題を扱う内容とかもそがれていっている気がする。まぁ、「美味しんぼ」は極端な例だけど。
自己表現とは何か?
というのを改めて調べてみると、以下のような文章が…。
自己表現というのは、自分の中にある「何だかよくわからないもの」を何かの形にして外に出すことである。よくわからないものを外に出すのは、自分を把握するためである。
自己表現とは何か
この先に進むと思考の迷宮に入りそうでしたので、深追いはしないですが…。以下の部分。
自分がよくわかっていることを他人に伝えようとするのは自己主張である。
これを考えると、元エントリでは『自己表現』と『自己主張』が混同しているのじゃないか?とおも思える。元記事の以下のような部分。
歌にアーティストの生きざまそのものが反映され、聴き手である私たちは歌を聴いてアーティストの〈生きざま〉に共感を覚えたのだ。
反映されたモノを共感できるってことは、『自己主張』寄りになっているように思える。「なんだか分からない」モノが形になったら受けた側も「なんだか分からない」ように思える。そして、受け手に「生きざまが反映している!」と感じられたら、それは、自己主張なのでは…と思考が迷宮入りになるので、あえて『自己主張』的なモノも含めた感覚で『自己表現』を以下からは扱う。というか、これまでもそう思っていた。
今、音楽に込めるモノは?
それはなんだか分からないモノじゃなくて、明確に社会から感じるモノはあると思う。格差社会や不景気。閉塞感。生き難さ…色々あるような気がする。例えば「消費税増税反対ソング」とかは自己主張でしかないような気がするが、何が悪いか、原因かよく分からない閉塞感みたいなモノを音楽に込めたとして、それが売れるのだろうか?
多分、売上とか、テレビとかに出ていないだけで、そういう音楽は山の世にあると思う。しかし、商業的に考えて「反原発ソング」とか、大大的に売り出すとかできるのだろうか?結果売れるとかは別として。
「歌う歌もなければ、聴く歌もない」としても、探せばあるように思える。
俺たちオジさん(オバさん)には…以下の曲はどう思うのかな?聴かないのかな?歌わないのかな?
以下の曲には明確なメッセージがあるから自己表現じゃあなくて、自己主張だと思うけど。
氏の好みは分からないし、氏の言う『良質な“大人の音楽”を〈Age Free Music〉』とは違うかも知れない。だけど、私は、氏の記事の中で、以下の部分。
吉田拓郎、井上陽水、南こうせつなど40年余り前に彼らの歌に初めて触れたときのあの“衝撃”を、私は今でも決して忘れてはいない。だが、あのときの〈衝撃〉が現在の歌には残念ながら感じられない。今、私たちには“共感”できる歌が少ない。
という部分に対して共感する一方で、私には「出合った衝撃」ではないのだけど、引用中にあるアーティスト達の曲を聴く時に感じるモノの同種、或いは異種、全然違うかも知れないけど、近い感情をサンボマスターの曲から感じました。
自己主張という意味では、自己表現の『大人の音楽』とは違うかも知れないけど。売れている場所が『ミュージックシーン』と言えるのかも知れないけど、AKB48、嵐、ジャニーズ系、K-POP勢と並べる一方で、売れてなくても探せば、きっとどこかにあるハズで、そういうモノを探して紹介するのも、音楽評論家である富澤一誠氏の仕事なのじゃないか?と思ったら…。ブログをされてました。
…思った以上にポップでした…。
終わります2。
アニメを切り口に書いてみたのですが、なんか、音楽の話になりました。まぁ、それも良いでしょう。流石に、もうエントリを書き進める感情は出てきそうにありません。また、お会いしましょう。