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大阪の卒業式で君が代を歌っているか口元を確認した…という現象。

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大阪府立和泉高校の卒業式で、国歌斉唱の際、教職員が本当に歌っているかどうかを、校長が口の動きで確認していたことがわかった。

 口が動いていなかった教員のうち、1人が歌わなかったと認め、府教委が処分を検討している。国歌起立条例を提案した地域政党・大阪維新の会代表、橋下徹・大阪市長は「服務規律を徹底するマネジメントの一例」と絶賛。しかし、その徹底ぶりに反発もある。

国歌斉唱「口動いてない」教員、校長がチェック : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

 私のダイアリの雰囲気から、日の丸、君が代、国旗、国歌に前向きな考えを持ってないことは、雰囲気で伝わっているかも知れないけど、お隣の府で起きたことだから、考えた事でも書いてみようかな、とか。炎上しそうだけど。

 内心の自由とは何だろうか?とか。

 『内心の自由』という言葉を勘違いしているかも知れないけど、国旗、国歌を信奉する、讃える、嫌う、否定する…それらに対して、どう考えるかは、「内心の自由」だと思っている。

 それに対して、卒業式で「国家は歌うこと」と決まっている中で、歌わないことは、内心の自由か?国家を歌っている時に、実は、敬う気持ちを持ってないとか、晩御飯のことを考えているのは、内心の自由だと思うのだけど、ルールの中で「歌わない」を選択するのは、行動として外に発せられている訳で、「内心」ではないな…と思った。

 でも、心の在り方が行動に現れる訳で、国旗とか国歌とか、賛成・反対が分かれることを、「義務」というルールを作ってしまうところに問題は、感じるが、それは、民意の結果な訳だ。世の中に存在するルールに全て従わなければならないか?となると、また、別のことを考えないといけないけど、「皆で考えたルールは守る」というのが、社会を円滑に動かしていくことだと思う。

 国の旗と、国の歌なんだから、敬って当たり前…という風に単純に考えられたら良いのだけど、そうにもいかなて、色々あるらしい。私が、小学5、6年生の時に、時の校長先生が、「君が代の『君』は『君達』の『君』なんだよ。」と全校集会で言って、その後、担任の先生に、「校長先生が嘘を言っていいのですか?!」と詰め寄ってしまうような、痛々しい子どもだった。でも、卒業式の時は、座ったりしなくて、口パクをしてたのだけどね。全体の中で目立つのが嫌。

 思想・信条のことを、安易に扱うというか、どちらの立場の人も、ディスったりしたら、駄目だと思うのだけど、雰囲気とは、熱心な賛成派:熱心な反対派:どうでも良い派の割合は、「1:1:98」くらいに思える。これは、地域差とかあると思うのだけど、国民の祝日に町を自動車で走っていると、「日の丸」を掲揚していると家が全然ないことに愕然としたこともあったな。なんとなくイメージとしては、40〜50%の家は、日の丸を掲揚していると思ってたのだけど、認識が浅すぎた。

 だから、義務として「歌う」ことになっていても、歌っているフリ、口パク、替え唄等々、自分の心を守る手段もあると思うのだけど、それが許されない気持ちも分かると思う。しかし、教職という仕事をかけるリスクも大変だと思うのだけど…。うーむ。

 後、式典での「君が代」を歌うことの義務化…というのも、人生の中の割合で言えば、少ない時間。卒業式だけで言えば、小学校、中学校、高校、大学、大学院の5回か。職業訓練の卒業式は君が代はなかったな。日の丸は出てたっけ?まぁ、時間の割合で言えば、少ないから、そもそも無関心な人々は(私も)、別に「義務」になっても、そんなに、どーでも良いと言えば、どうでも良い。京都で同じことになったら、地域性とか地域思想の部分で、悲しくなると思うけど。

 でも、もしも、「国民の祝日には国旗を掲揚すること!」というのが、義務化されて、ペナルティーとかが、出たら、それには、反対する人がでてくるだろうか?旗を買わないといけない、旗を掲揚する器具?を取り付けないといけない、と金銭的な負担もあるけど、1年の間に義務に使う時間が多くなるし、面倒だし。でも、卒業式という少ない時間の義務化の延長にあるのは、そんなのかな?と思ったり。後、人生の中で割合が少ないからこそ、大切な時間とも考えられる訳ですが…。

 卒業式でも「義務化」とかに、一定の違和感とか、滑稽な部分を感じていたのは、自発的に国民の祝日に国旗を掲揚するような雰囲気がないのに、「義務化」とか言っているからかなぁ。それが、思想に関することなら、自然と国旗があがる雰囲気というのが、市井に広がっていくことの方が、大事だと思うのだけど、それも大事だと思うのだけど、それも、難しいか。いっそのこと、国旗も国歌もリニューアルさせてしまうとかね。歴史認識とかにも関わってきますけど。

 とまぁ、大阪の卒業式で、教師の口元が確認されたことで、そんなことを考えました。「みんなで歌う」ことが大事なのか、国歌を敬うことが大事なのか?本当に内心の自由を尊重するなら、「国旗・国歌あり卒業式」と「なし卒業式」の2部構成にするべきなのかな…と思ったり。うかつなことを書いたら、炎上するかな。

 こまねち。